1.
生体内で起きる様々な生理現象や生体機能を理解するためには、生体内の分子の分布や状態、さらには分子同士が形成する高次の構造体やオルガネラなどを高い時空間分解能で可視化することが重要である。17世紀に光学顕微鏡が開発され初めて生命現象が可視化された後、様々な光学に基づく可視化技術の開発が行われてきた。この背景には、近年のレーザー技術や光検出素子、光学フィルタ、計算処理技術など、さまざまなテクノロジーの進歩がある。特に、波長が400〜800 nmの可視光を利用した光学顕微鏡は多様な分子物性を示す光と物質の相互作用を高い空間分解能で観察できるため、生命科学から医学や歯学など広範な分野で応用されている。。
図1は、COS7細胞の光学顕微鏡像である。読者の中にも、細胞の光学顕微鏡像を見たことがある方が多いと思われる。光学顕微鏡は当たり前のように使用されているが、細胞の形状やオルガネラの観察が鮮明にできるのは、光学顕微鏡の空間分解能が光の回折限界によって決まるからである。回折限界は、おおよそ光の波長の半分程度、つまり光学顕微鏡の空間分解能は約400 nm程度である。動物細胞では、数十μm程度の外形に数μm程度のオルガネラや小器官が存在し、シアノバクテリアのような原核微生物であってもせいぜい1μm程度の大きさである。このサブミクロンという高い空間分解能により、光学顕微鏡で細胞やバクテリアを鮮明に観察することができる。一方で、明視野顕微鏡や位相差顕微鏡といった通常の光学顕微鏡で可視化できる物性は、屈折率や誘電率、透過率などの違いである。これらは、細胞内の構造を可視化できる場合もあるが、分子特有の光学信号ではないため、細胞内の分子を区別することや分子の状態を観察することは難しく、生命現象や医学的に有意な知見を得ることは難しい場合が多い。
2.
生命科学や医学分野において、最も一般的で広く用いられている光学顕微鏡に基づく可視化技術は蛍光顕微鏡である。蛍光顕微鏡では、標的分子に蛍光を発する分子を標識し、その蛍光を計測することで、分子選択的なイメージングが可能となる。蛍光は励起断面積が大きく明るい光学信号であるため、高い信号対雑音比と高い時間分解能を持ち、細胞内の分子ダイナミクスを可視化する強力な顕微鏡である。蛍光は励起断面積が大きく明るい光学信号であるため、蛍光顕微鏡は高い信号対雑音比と高い時間分解能を持ち、細胞内の分子ダイナミクスを可視化する強力な顕微鏡である。、蛍光分子を細胞内の分子に標識することによる生体機能の阻害や、蛍光の退色により長時間観察ができないという課題も存在する。そのため、蛍光標識を必要としないラベルフリーな計測法の開発も重要視されてきた。
ラベルフリーかつ分子選択性の高い可視化技術の代表的な手法は、振動分光顕微鏡である(ラマン顕微鏡、中赤外顕微鏡)。ラマン分光法や中赤外分光法では、分子振動を反映する光学効果(ラマン散乱・赤外吸収)を計測することで、細胞内のタンパク質や核酸などの分布をラベルフリーで可視化できる。また、分子の振動情報を直接観察できるため、生体内での分子の化学構造変化や官能基に関する情報も分析できる。特に、可視光を利用したラマン分光法はサブマイクロ空間分解能を実現でき、細胞内のタンパク質や脂質の物性の可視化や、ミトコンドリアや細胞核などの細胞内小器官の可視化などに広く応用され、生命科学の領域において新たな展開をもたらしてきた[1]。しかしながら、ラマン散乱光の散乱断面積は小さく(約10-30程度)微弱な光信号なので、1枚の画像を撮像するには少なくとも数十分から数時間を要する。そのため、細胞内の分子のダイナミクスや生きた試料の観察は困難である。また、散乱断面積の小ささは検出できる分子の濃度が高いことを意味し、細胞内で分子が高濃度に存在する成分からのラマン散乱しか検出できないという課題もある。近年、非線形光学効果を利用したコヒーレントラマン顕微鏡の開発も進んでおり、高速なラマンイメージングが可能となった。しかし、高強度のパルス光を使用するため、生体への光ダメージが懸念される点や、検出できる分子濃度が劇的に向上しない点など、解決されていない課題も依然として存在する。
その点、中赤外吸収分光はラマン分光に比べて吸収断面積が8桁以上も高いため、低濃度の成分でも検出できるという特長がある。また、光学応答の効率が高いということは、高速イメージングも可能であるということであり、生体イメージングにおいて非常に大きなポテンシャルを持っている。また、本稿では詳細には触れないが、ラマン散乱に比べて中赤外吸収分光は生体内で重要な分子、例えばタンパク質や核酸の分子構造や物性を感度高く分析できるため、生体機能の解明に適した可視化技術である。しかしながら、前述の通り、顕微鏡の空間分解能は使用する光の波長によって決まる。中赤外顕微鏡で使用される波長は3〜20 µmであるため、空間分解能は約10 µm程度に制限される。細胞内の分子複合体やオルガネラを観察するためには、少なくともサブマイクロメートルの空間分解能が必要であることは、可視光を利用した光学顕微鏡像からも明らかである。また、水は中赤外光を吸収するため、溶液中の細胞やバクテリアの中赤外分光分析は困難である。これらの課題を克服することができれば、細胞内の分子ダイナミクスをそのままの状態で観察し、生命科学、医学、歯学などのバイオメディカル応用が拓かれると筆者らは考えた。
次回に続く-
参考文献
- T. Minamikawa, M. Ichimura-Shimizu, H. Takanari, Y. Morimoto, R. Shiomi, H. Tanioka, E. Hase, T. Yasui, K. Tsuneyama, Sci. Rep. 10, 1 (2020)
【著者紹介】
加藤 遼(かとう りょう)
徳島大学 ポストLEDフォトニクス研究所 特任助教
■略歴
- 2021年4月 – 2022年5月徳島大学ポストLEDフォトニクス研究所 特任研究員
- 2022年6月 – 現在徳島大学ポストLEDフォトニクス研究所 特任助教
- 2021年6月 – 現在理化学研究所 メタマテリアルグループ 客員研究員
- 2021年10月 – 現在JST ACT-X研究者「環境とバイオテクノロジー」