― はじめに
センサイト協議会事務局から「センサイト談話室」への原稿執筆依頼をいただいたので嗅覚研究の紹介をしてみようと思います。
― どうして嗅覚か
アトムがお茶の水博士に「人間の子供のように涙を流せるようにして!」という一文に会ったとき、なぜ「ニオイがわかるように!」といわないのかが気になり「下等な動物のニオイ識別機構を真似すれば簡単にできるだろう」と単純に思い込み、生物学は苦手なのにニオイの研究者がいると聞いた動物学科を物理と化学で受験し、目的の先生を探すために新入生歓迎会の幹事を引き受けました。
― 嗅覚研究の経過
嗅覚系は他の感覚系が必ず経由する大脳の視床を経由しないという特殊な神経回路で何十万ともいわれるニオイ物質を識別することができます。ニオイの感覚は大気中に浮遊する有機・無機の化学物質が鼻孔より吸入され、鼻腔内嗅粘膜にある嗅細胞の繊毛で受容されるとその化学的情報が嗅細胞内で電気信号に変換され嗅細胞の軸索すなわち無髄の嗅神経を伝わり嗅球の僧帽細胞とシナプスしたのち嗅索を経て梨状葉から直接大脳皮質嗅覚領へ行く系と梨状葉から辺縁系の扁桃核、中隔核、視床下部へと進み大脳皮質嗅覚領へ行く系が考えられていますがまだ大脳皮質嗅覚領の位置は確定されていません。
嗅細胞の活動を明らかにするには細胞内記録法で嗅細胞にアプローチすることが考えられます。感覚細胞の細胞内記録の第一報は視細胞で1964年、味細胞は1970年、嗅細胞は1968年に報告されました。しかし1970年以降、細胞内記録と同時にその細胞を染色して同定することが必要条件となりました。視覚では過去の微小電極法による細胞内記録は染色法で1970年に確認されました。味覚は1984年に筆者が確認しました。しかし嗅覚はまだ確認されていません。
嗅細胞が中枢に向けて送る情報の研究は1960年頃から微小電極による嗅細胞外ユニットインパルスの記録が報告され始めました。視覚や味覚の分野では1945年頃には微小電極等による細胞外ユニット・インパルスの記録が行われ、さらに視神経や味神経は有髄神経であることから単一神経繊維を分離してユニットインパルスの記録も行われて詳細な研究・解析が行われています。嗅神経は無髄神経であるため単一神経繊維を分離できません。1960年代にアメリカ合衆国フロリダ州立大学のDr. Tuckerが開発した嗅神経小束法によって嗅細胞で発生して嗅神経を伝導するインパルス‘群’の記録ができるようになり嗅神経レベルでのニオイ刺激とその応答の関係が明らかになりはじめましたが1981年に筆者がフロリダ州立大学の研究室を離れるとともに嗅神経小束法による嗅覚の研究は止まっています。
1987年以後、嗅覚の分野でもパッチクランプ法やカルシウムイメージング法や遺伝子組換え法を利用した研究が始まってきました。しかし、嗅細胞のニオイ刺激に対して発生する受容器電位、嗅神経にインパルスを発生させる発電器電位(起動電位)の発生機序、また個々の嗅細胞が各種のニオイに対してどのようなニオイ情報を中枢に伝達して大脳におけるニオイ識別機序に関与しているのか、並びに嗅粘膜内での嗅細胞と支持細胞との関係や嗅神経と嗅球内の僧帽細胞との神経連絡機構などまだ視細胞や味細胞のレベルまでには解明されていません。嗅細胞が小さいことやニオイ物質の物理科学的性質が解明されてなく、光のような矩形波刺激として使えないことにも原因があると考えます。
― 嗅覚研究への想い
嗅覚は視覚・聴覚・味覚ほどには日常生活では意識されない感覚ですが重要なものであるはずです。ヒトにとって有毒物質や腐敗した食物を識別し、その摂取を防ぐとともに、食物をおいしく味わうために必要な感覚です。またニオイは生活を豊かにしストレス解消にも利用されています。動物にとって嗅覚は食物の摂取や補食動物からの回避、あるいは生殖行動・個体の生存のみならず種の保存のために不可欠な感覚です。
生理学の教科書では視覚や聴覚はそれぞれ数十ページ超、味覚は数ページ、嗅覚は多くて2ページの記載です。味覚や嗅覚にはまだ教科書に載せられるような研究成果が少ないというのが実情です。研究し尽くされているような視覚でも例えば、光受容細胞の光応答が脊椎動物では過分極、軟体動物では脱分極となります。その原因は盲点が有るか無いかとされていますが未解決です。味覚でも全ての甘味物質に共通した物理科学的性質はまだ不明ですし、塩味も食塩以外の代替物は知られていません。しかし、視覚では光の物理科学的性質が解明されていてその性質に沿った研究法で大きな成果が得られています。味覚も不十分ですがギリシャ時代から知られている4基本味を利用して成果が得られています。ところが嗅覚のニオイに関しては基本臭すら不明です。AIに期待したいところです。
酪酸は全員が嫌うニオイというアンケート結果でしたがfMRIの画像からは好きな人がかなりいるような結果が得られていました。そこで個人の特定はできないと説明して再アンケートを行った結果、約半数の人が好きもしくは嫌いではないとの回答が得られfMRIの結果と一致したという経験があります。また、酪酸は蒸れた靴下のようなニオイですが薄めていくと桃のようなニオイになりますが理由はまだ不明です。アロマ臭は長く嗅げますがすぐに慣れて抗酸化効果も同時に消失しますが、悪臭は長くは嗅げませんが抗酸化効果は長く続くことがわかってきました。悪臭はさまざまな理由であまり研究されていませんが嗅覚研究の突破口になると思っています。
嗅覚の研究は他の感覚の研究の進展度と比べると著しく遅れています。視覚や聴覚は生理学・解剖学の研究成果が視聴覚機器の開発にも取り込まれ日常生活を豊かにしています。嗅覚は「ニオイがする」で終わり、「なぜ」、「どうして」、「もっとよく」と研究が進められないのは何故なのか。
その原因として、1)ヒトは視覚・聴覚・味覚ほどには嗅覚に関心を持っていない、
2)ニオイの物理科学的性質が解明されておらず、視覚の3原色や味覚の4基本味に相当する基本臭さえ判明していない、
3)ニオイの濃度の決め方も統一されていない、が考えられます。
興味深いことに、視細胞・聴細胞は一生ものですが, 嗅細胞・味細胞は3〜4週間で新生細胞と入れ替わることや血流が止まると嗅細胞・味細胞は即座に活動を停止するのに対し視細胞・聴細胞は暫くは活動できるということ、またヒト以外の多くの動物は口呼吸はできないという謎があります。
― 終わりに
アトムに鼻をつけたいという目的だけで生物学嫌いが動物学教室へ入り苦手な動物で苦闘し、博士課程終了後は聖マリアンナ医大で視覚の研究をし、フロリダ州立大学で犬の嗅覚と味覚の研究をし、長期滞在を考え始めた頃、「岐阜歯科大学に」といわれ帰国して味覚の研究に従事し、その後、岐阜大学農学部獣医学科、明海大学歯学部ではゼロから電気生理学研究室を立ち上げて嗅覚の研究を続けてきました。Federal Aviation Administration(USA)からの依頼でイヌの嗅覚の講演をした際、その場にいた日本の航空関係者に爆発物探知犬の話を持ちかけたところ即座に拒否されました。ガン探知犬のガン発見率は90%以上ありメディアからも注目されましたが、動物愛護や個人情報・医療の壁が厚く、呼気分析もガン患者の呼気ではと断られながら、ガンのニオイ探知センサを作ろうと次世代センサ協議会に入会しましたが、線虫という思わぬライバルが現れ頓挫しました。
目的達成のためにと視覚、味覚の電気生理学的研究もやってきましたが、嗅覚の研究成果だけがまだnatureに発表できず、そのうえまだまだ目的達成には届かないという内心忸怩たるものがあります。
【著者紹介】
外﨑 肇一(とのさき けいいち)
理学博士 嗅覚研究所 代表
■略歴
1970年 東京教育大学理学部生物学科動物学専攻卒業、
1976年 東京教育大学大学院理学研究科修士・博士課程修了、理学博士。
1976-1978年 聖マリアンナ医科大学生理学教室助手
1978-1981年 アメリカ合衆国フロリダ州立大生物Res.Assoc.Prof.
1981-1995年 岐阜歯科大学(現朝日大学)歯学部口腔生理学講座助手・講師・教授
1995-2001年 岐阜大学農学部獣医学科家畜生理学講座教授
同大学連合大学院教授(獣医学研究科生理学分野)
2002-2011年 明海大学歯学部口腔生理学講座教授
2009-2015年 オリエンタルアロマテラピ−カレッジ非常勤講師
2012-2017年 文教大学人間科学部非常勤講師
2012-2022年 神奈川県立横浜看護学校非常勤講師
■主な受賞歴
1983年 社団法人全日本狩猟倶楽部より全猟論文賞
1985年 Association for Chemical Sciences(USA)より
Travelling Scientist Fellowship Award
1988年 日本味と匂学会より中西賞
1996年 Federal Aviation Administration(USA)より
K-9(canine) Certification of Recognition Award
■主な一般著書
においと香りの正体. 青春出版
がんはにおいでわかる. 光文社
イヌは匂いの夢を見る. フレグランスジャーナル社
マンガでわかる香りとフェロモンの疑問50. ソフトバンククリエイティブ社
ニオイをかげば病気がわかる. 講談社αシリーズ, 東京
気になるニオイまるごと解決! アントレックス, 東京
超乎想像的氣味驚奇. 辰星出版, 台中市, 台湾