昆虫のバイオミメティックに基づく新しい抗菌、抗ウイルス技術(1)

株式会社KRI 

株式会社KRIでは薬剤や熱、光等のエネルギーを一切用いない長期的な抗菌効果を発揮する機能表面形成技術を開発した。
本技術により形成された機能表面は、菌だけでなく不活化が困難なカビ等の芽胞体の成長抑制にも効果がある事が実証されており、更には昨今、喫緊の課題となりつつあるウイルスの不活化にも効果が期待できる。
本機能表面は昆虫の羽が有する強い抗菌効果の源泉である微細ナノ構造のバイオミメティックに基づく。KRIではこの殺菌、防カビ効果を持つナノ構造を簡易、且つ安価なプロセスで構造表面に形成する事に成功した。
今回は人々の生活において身近な問題である菌やカビ対策、更にはアフターコロナにおいて安心・安全空間を提供できる技術の一端となりうる新しい概念に基づく衛生保持技術についてご紹介させて頂きたい。

【はじめに:水回り清掃におけるやっかいな菌、カビ】

生活環境における衛生保持は古くから身近な課題であり、誰しも1度は家庭の水回り清掃をして菌やカビと格闘した経験があるだろう。そして、菌、カビの除去が精神面、労力面含め大変な作業であるという実体感をお持ちではないだろうか。
菌、カビの清掃が埃や油汚れよりも大変なのは「彼ら」が生物である事による。菌であれば粘膜のような分泌物を自らを守るバリアとしてバイオフィルムを形成し、カビであれば簡単に胞子が飛散しないように根を張り強く固着する。
そのため菌、カビは一度繁殖してしまうと除去するためには、強力な薬剤を用い、且つ力強く払拭する必要があるが、頑張って綺麗にしても、清掃の手が届かない局所、例えばバスタブと壁の隙間のように清掃が困難な場所にカビの巣がある限り、何度でも胞子をまき散らしカビは生えてしまう。
つまり、面倒な水回り掃除から解放されるには永久的に菌、カビの増殖を抑制する事が必要となる。しかし、薬剤を用いた既存方法はいずれも有限の化学反応エネルギーや強い払拭力等の力学的エネルギーを都度必要とするため、短期間しか抑制機能を維持できない。
そこでKRIでは、化学反応などのエネルギーを用いない新しい殺菌原理に基づく事により、長期的に抑制効果が持続する新しい殺菌、カビ抑制技術の実現をターゲットとした研究を行っている。

【昆虫の羽が持つ殺菌力のバイオミメティクス】

実は昆虫の羽には興味深い生体機能として、殺菌効果を持つ事が知られている。
オーストラリアの生物学者であるElena Ivanova氏はこの抗菌効果について調べるため、トンボの羽を微視的に観察したところ、羽の表面は数百nm程度の超微小な突起に覆われている事が分かった(ref.1)。トンボの羽の材料自体には抗菌効果はないため、著者はこの突起構造自体が殺菌効果を持つのではないか、という仮説から、Si微細加工技術により人口的にトンボの羽の構造を再現したSiナノ突起構造(一般的にはブラックシリコンの呼称)を形成し、トンボの羽と幾つかの菌、胞子に対する不活化効果を検証した所、安定で不活性な材料(殺菌性がない)であるSiのナノ突起でもトンボの羽と同程度の効果が得られることがわかった。
この結果が指し示す重要な知見としては、トンボ等昆虫の羽が持つ殺菌効果は【材料に因らずナノサイズの構造によってのみ定義される】という事実である。つまり、殺菌力を発揮するナノ構造さえ形成すれば、どんな材料を使っても構わない、と言える。

ナノ構造に基づく殺菌原理は、微細な構造が対象に物理的なダメージを与え続ける事で不活化される、と考えられているため、本稿ではこの殺菌メカニズムを物理殺菌力と定義する。(ただし、この殺菌原理については未だ議論の渦中であり、本稿著者も観察等から鋭意解析中である)
物理殺菌力は上述のようにナノ構造に基づく物理的なダメージを源泉とするため、薬剤を用いた化学反応に基づく方法のような殺菌に伴う材料消費がない。よって、ナノ構造を維持できていれば、原理的には半永久的に殺菌効果を持続できる、と言える。
このようなエネルギー消費を伴わない殺菌方法は、化学反応以外の方法(例えばUVによるDNA損傷はUV励起に電気エネルギー、光触媒であれば光エネルギーが必要で暗環境では効果が得られない)を見ても他にないユニークな特徴であり、高度な生体機能のバイオミメティックならではの特徴と考える。

図1:昆虫の羽のバイオミメティックに基づくエネルギー不要の物理的殺菌効果

【KRIの物理殺菌技術開発方針とアプローチ】

KRIの本技術における基本的な開発方針は、量産性がある事を前提とした物理的殺菌効果をもつナノ構造形成プロセスの開発である。

殺菌やカビ除去などの衛生保持技術、製品は基本的に安価で大量生産を前提となることが一般的である。そのため、前述の微細加工Siナノ構造は緻密なナノ構造制御が可能ですが、高価な半導体加工技術を用いた枚葉加工なので、工業的な殺菌用構造材料としては不向きと考える。勿論、トンボの羽を大量に毟って使う事もできない。
そこでKRIでは、衛生保持技術の実用化に不可欠な要素として【安価である】【大量生産できる】、そして様々な製品に適用できるように【形状、基材材料自由度の高い形成プロセスである】、以上3点を前提にした昆虫のバイオミメティックナノ構造の概念を実現する構造形成プロセス開発を基本的な開発方針として研究を進めている。

参考文献

ref.1) Elena P. Ivanova et al., “Bactericidal activity of black silicon”, Nature Communications 4, Article number: 2838 (2013)

【著者紹介】
吉川 弥(よしかわ わたる)
株式会社KRI フェロ&ピコシステム研究部

■略歴
・2014 KRI入社
・MEMSや微細加工を主とした研究に従事
・2020 現在に至る

■専門分野・研究テーマ
殺菌技術、MEMS、形状記憶合金、半導体製造装置、プラズマ物理