エマルションからの香気放散挙動(1)

九州大学 大学院 教授
井倉 則之

1. 香りとは

ヒトが香りを感じるのは、香気化合物が鼻腔内の嗅覚受容体に結合し、その信号が脳へと送られることによる。脊椎動物の嗅覚受容体は、7回膜貫通構造を持つGタンパク質共役型受容体であり、ヒトにおいては、その嗅覚受容体は約400種類あると言われている1, 2)。ひとつの嗅覚受容体は、ある特定の香気化合物だけでなく構造的に類似した複数の香気化合物を認識することができる。さらに、ひとつの香気化合物は複数の嗅覚受容体によって認識される。香気化合物が約400種類ある嗅覚受容体の中のどの嗅覚受容体と結合するのかという組み合わせは、香気化合物ごとに異なっている。このような機構により、ヒトは数十万種類あると言われる香りを識別することができると考えられている1,2)

香りはヒトが食品を摂取する際に、その食品が安全なものか否か、またはその食品は好みのものなのかを選択する際に重要な要因となる。さらに、香りは食品の味にも影響を及ぼす。風邪で鼻が詰まっている時に食べる食事が味気なく感じることは誰もが経験していることだろう。実際にDjordjevicらは、ショ糖水溶液にストロベリーの香りを付与することで、その甘味が増強されることや、食塩水に醤油の香りを付与することで、その塩味が増強されることを確認しており、香りが嗅覚のみならず味覚にも影響を及ぼすことがこれまでにも多く報告されている3)。このように、香りは食品品質を決定づける重要な因子であり、その香りがどのようにして食品から放散されるのか、その挙動を調べることは加工食品の開発において重要なテーマと言える。そこで、本稿では多くの食品を形成する系の一つであるエマルションからの香気化合物の放散挙動について述べる。

2.エマルションからの香気放散挙動

エマルションとは水と油の一方を分散相として他方の連続相に分散させたものである。エマルションは大きく分けて、二つに分類される。一つが水中油滴型(O/W)エマルションであり、水相を連続相、油相を分散相として水中に油滴を分散させた系のことであり(図1)、マヨネーズ、アイスクリーム、ドレッシングなど数多くの食品に用いられている。

図1 O/Wエマルションの構造

もう一つは油中水滴型(W/O)エマルションであり、油相を連続相、水相を分散相として油中に水滴を分散させた系であり、マーガリンやバターがこれに含まれる。他にも多層型エマルションといい、O/Wエマルションの油滴内にさらに水滴を分散させたW/O/WエマルションやW/Oエマルションの油滴内にさらに水滴を分散させたO/ W/Oエマルションなども存在する。このようにいくつかのタイプのエマルションが存在するが、これらエマルションは水と油両方の性質を持たせることができるため、食品だけでなく、化粧品や医薬品においても重要な系の一つと言える。

エマルションはこのように水と油が混じり合わずに存在している系であり、そこからの香気放散挙動は、単純な系からの香気放散挙動とは異なることが考えられる。香気化合物は一般的に疎水性の高い物質が多い。このような化合物の疎水性の程度を表す指標として分配係数が用いられる。化合物の疎水性を表す最も一般的な分配係数はオクタノール−水間の分配係数であるlog Powである。実際にエマルションからの香気放散挙動とlog Powの関係を調べた論文がいくつも報告されている4-6)。例えば、log Powの大きい、すなわち疎水性の高い香気化合物のO/Wエマルションからの放散速度はエマルションの油相含有率の増加に伴い減少するのに対して、log Powの小さな香気化合物の放散速度は油相含有率の増加に伴い増加するという報告がなされている5)。この油相含有率の影響は、油脂や乳化剤の種類によって影響を受けない5, 6)と考えられていることから、現在でも香気放散挙動の検討において、香気成分のlog Powはよく利用されている。しかし、私たちの研究室でいくつかの香気化合物についてエマルションからの放散挙動を調べたところ、単純にlog Powのみでは表すことは困難であることがわかった。図2に示したグラフはガラス容器に注ぎ入れたO/Wエマルションから、放散される香気化合物の放散量を求め、log Powと香気放散速度の関係を調べたものであるが、図に示したように両者の間に相関は認められなかった。このように、エマルションからの香気化合物の放散挙動は単純に化合物の疎水性で表すことは困難である。

図2 各香気化合物のLog Pow値と香気放散量の関係

3.エマルションにおける分配係数

エマルション内でどのように物質が分配しているのかを考えるには、油−水間の分配係数とほぼ同等の傾向を持つと考えられるlog Powを用いることは一般的だと言える。しかし、エマルションからの香気化合物の放散挙動という考えに立つと、油−水間の分配係数だけでは不十分だとも言える。なぜなら実際に香気化合物が放散する時は、エマルション(水相あるいは油相)からヘッドスペース(気相)へと香気化合物は移動するため、それらの間の分配係数を考慮する必要がある。そこで、香気化合物のエマルションからの放散挙動を調べるにあたり、図3に示すように油−水間の分配係数(log Pow)だけでなく、水−気間および油−気間の分配係数(log Pwa およびlog Poa)も考慮することとした。

図3 エマルションにおける各相間の化合物の分配係数

次回に続く-

参考文献
1) 東原和成, 日本耳鼻咽喉科学会会報, 118, 1072-1075 (2015)
2) 東原和成, 化学受容の科学, 化学同人 (2012)
3) J. Djordjevic, et.al., Chemical Senses 29, 199–208 (2004)
4) C. Druaux & A. Voilley, Trends in Food Science & Technology, 8, 364–36 (1997)
5) S. Rabe, et.al., Food Chemistry, 84, 117–125 (2004)
6) O. Benjamin, et al., Food Research International, 44, 417–424 (2011)

【著者略歴】
井倉 則之(いぐら のりゆき)
九州大学大学院農学研究院 教授 農学博士
九州大学五感応用デバイス研究開発センター協力教員
九州大学生物環境利用推進センター複担教員

■略歴
平成5年3月  九州大学大学院修士課程修了
平成5年10月  九州大学農学部助手
平成16年11月 九州大学助教授(平成20年に同大学院准教授)
令和元年10月 九州大学大学院農学研究院教授

■受賞
平成30年11月  Best Papers Award of ICNFE 2018
平成31年2月  Food Science and Technology Research Award Vol.24

これまで、食品の美味しさに関わる研究(非加熱殺菌、食品物性、香り)を続けてきている。